「少年とエレキギター」
Hirasawa Susumu(以下HS):最初に買ったのは、ZENONのギターですね。小学校5年生の時です。
小学校5年生ですか!?早いですね!ナイロン弦ですか?
HS:いえ、エレキです。ピックアップが2つ、トレモロアーム、当時8,000円ぐらいだったモノを丸井で月賦で買いました。
小学校5年生で始められた、という事ですが、インスパイアされたものは?
HS:60年代のインストゥルメンタル・バンドですね。判りやすいのでよくベンチャーズ(※1)とか言ってますけど、むしろ日本ではよりマイナーだったスプートニクス(※2)とかアトランティクス(※3)のような、ちょっとヘンな人たちに惹かれてました。
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※1 アメリカのインストゥルメンタル・バンド。特に、日本ではビートルズと並び、多くの人に影響を与えたバンド。テケテケサウンドと称する擬音もこの頃から。 |
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※2 スウェーデンのエレキ・ギター・インストルメンタル・グループ。スプートニクとはソ連が1957年に世界で初めて打ち上げに成功した人工衛星の名前。 |
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※3 オーストラリアのバンド。現在も活動中。 |
(笑)それを小学校5年生で聴かれていたんですね。
HS:そうですね。
その頃、そうした音楽を聴けるソースってなかなか無かったですよね。FEN(※4)に少し掛かるぐらいで。
※4 FENはFar East Networkの略で米軍基地在住の軍人とその家族へ情報や音楽が流され、周波数はAMで810MHz。当時最新の洋楽が聞けてDJのカッコ良い英語がリアルに堪能出来た放送を、聞いていたミュージシャンも多かった。一説ではリミッターをかなり掛けていたので、同じロックでも日本の放送局よりもFENの方が重厚に聞こえたとか?!'97からはAmerican Forces Networkとなる。 |
HS:TVラジオ以外で音楽に出会うのは難しい時代でした。エレキ・ブームの影響でエレキギターの本が出て、その中で見つけたヘンなバンドのレコードを注文したり、たまに売れスジに便乗したヘンなものがレコード屋に有って、掘り出し物だったりしました。ずっと後の時代になりますが、フリートウッドマックの「舞妓さん」とか(笑)
すみません、エピソード毎に思い出してますので、時系列がちょっとオカシイですけど。
イングリッシュローズ(※5)より前の?
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※5 イングリッシュローズは'69リリースのFleetwood Macの2枚目のアルバム。ブリティッシュブルースの金字塔的名盤!ギタリスト:ピーターグリーンのビブラートが泣かせる!Black Magic WomanはSANTANAもカバーする。 |
HS:そうです。ヒドイですよ。まだ商売っ気が出る前のフリートウッドマックですが、歌詞の途中に「・・mind cause I'm・・・」という部分があって、それが「舞妓さん」(※6)に聞こえるのでそのまま邦題にして、ジャケットも舞妓さんの写真です(笑)日本のレコード会社の犯罪ですね。
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※6 |
(笑)
HS:レコード屋さんも、外国人が舞妓さんの歌を歌っていると勘違いして置くんです。騙されて買いました(笑)
(笑)でもそれ、ある意味正しいレコードの買い方ですね。
HS:60年代はベンチャーズが売れていたので、周辺の無名の物もたまに出てくるんですね。便乗商法です(笑)情報が少ないのでレコード屋さんもヘンなもの置いてしまう。私はあえてそういうものを探してました。アトランティクスが店にあったのは奇跡でした。当時リバーブが深すぎて放送拒否されてましたから。
えぇ!?
HS:あの人たちってエンジニアなんですよ。自分達でアンプ作ったりリバーブ作ったりしてて。であまりにリバーブが深くて、DJが放送を拒否した。
へぇー!!
HS:今聴くと何でも無いんですけど(笑)
そうした音楽をいつ頃から聴く様になったのですか?
HS:小学校5年生頃からですね。
では、それから直ぐにギターを手にされたのですね?
HS:エレキギターの存在そのものが革新的でした。音楽よりもエレキギターの存在に惹かれたんです。
当時、電気ギターと呼ばれてましたが、楽器と電気が結びついた未来的な印象で、しかもボディーにテコが付いている。車のような塗装がしてあり、まったく新しい何かでした。
それ以前も、何か楽器を弾かれていたのですか?
HS:何も。音楽とは無縁でした。音楽の授業は大嫌いで、絶対に声を出して歌わなかった。テストの時も沈黙を貫きました(笑)
リコーダー等、学校の授業では無理矢理の感があって、自分もエンジョイできなかったですね。
HS:子供は感性がまだ固定されていないので、強制的に聴かされる事があっていいと思う。感性の育成という意味で。
だけど、生徒に媚びる教師は流行歌を歌わせたりする。拷問ですね。リコーダーだって良い楽器なのに演奏させる曲がつまらない。強制される価値のないものばかり。おかげで音楽が大嫌いになりました(笑)
それで、ギターも存在への興味から入ると。その気持ちは判る気がします。
HS:まずエレキギターに魅了され、当然その音楽にも魅了されたわけです。
ラジオを聴くようになり、TVでは見れない、マイナーな音楽がより面白いということに気付き始めます。
そしてエレキギターを買われ、ギターを弾く練習を始められる訳ですね?
HS:そうです。父親がギターを弾けたので、チューニングの仕方とドレミを教えてもらいました。後は好きな音楽の耳コピーです。
今、ライブとかでナイロン弦のアコギを弾かれているのは、お父様の影響ですか?
HS:いや、それは、プログレの影響です(笑)鉄弦よりナイロン弦、というのは、プログレですね。鉄弦だとフォーク、という偏見を持っていて。
(笑)プログレでもナイロン弦を使っているバンドって、そんなにいなかったですよね。
HS:そうですね、YES(イエス)(※7)もステージでは鉄弦使ってましたね。
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※7 イギリス出身のプログレッシヴ・ロックバンド。'69にデビュー。代表作に「こわれもの - Fragile」、「危機 - Close to the Edge」、「ロンリー・ハート – 90125」等がある。 |
スティーブ・ハウ(※8)は、そうでしたね。レコードではナイロン弦の音がちゃんと聴こえてましたけど。
※8 スティーヴ・ハウは、ロンドン出身のギタリスト。1960年代から様々なプロジェクトに参加、特にイエスやエイジアでの活動が有名である。 |
HS:私も鉄弦は持ってますけどね。鉄弦で「ジャラン、ジャラン」と弾くのは、やっぱり恥ずかしいです(笑)
60年代はフォーク全盛でしたが、フォークには一切タッチしなかったのですか?ボブ・ディラン(※9)とか、ジョーン・バエズ(※10)とか。
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※9 「風に吹かれて」、「時代は変る」、「ミスター・タンブリン・マン」、「ライク・ア・ローリング・ストーン」、「見張塔からずっと」、「天国への扉」他多数の楽曲により、'62デビュー以来半世紀にわたり多大なる影響を人々に与えてきた、ミュージシャンズ・ミュージシャン!国内でも崇拝者は多い! |
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※10 1960年代初頭からトラディショナルフォーク・バラードを持って、反戦活動をする。内外の多くの女性アーティストが彼女を模倣した。 |
HS:ノータッチです。フォークは、「エレキギターの存在にショックを受ける」という体験の延長線上には無いジャンルですから。世間ではちょっと音楽通になるとフォークでしたね。学園祭などで演奏する人たちは一目置かれていましたが、私はギターが弾ける事すら隠してました。どうせ理解されないと。
(笑)では、エレキギターはバンドではなく、一人で弾かれていたのですか?
HS:最初は一人で弾いていました。小学校5年生の頃です。
エレキブームに乗って素人がバンドを組み始めた時代で、当時はスタジオが無いので、大人たちは原っぱや神社の境内でバンドの練習をしていましたね。
(笑)
HS:ある日、その前を通りかかった時に、一緒に居た友人が「こいつギター弾けるんだよ」とバンドの人に言ってしまったんです。その場で弾かされ、そのままバンドに入れられてしまいました。
(笑)それはいつ頃ですか?
HS:小学校5年生の時です。
えぇー!(笑)
HS:日曜日になるとバンドの人が迎えに来るんですよ。ちゃんと両親に挨拶して。当時、エレキギターは不良が持つものだと言われてましたからね。
(笑)そのバンドは、やはりベンチャーズとかそうしたバンドですか?
HS:そう、そのあたりのイントゥルメンタル・バンドのコピー物ですね。
そうした原っぱの練習では、電源はどうされていたのですか?
HS:近所の工場から引っ張ってきたり、神社の境内や、団地の広場でも練習しましたが、皆おもしろがって電源貸してくれるんです。なにしろ小5が居るバンドですからね。
当然、ドラムスもバンドにいらっしゃったのですよね?
HS:いましたよ。
それだけ音が大きいと、さぞかし人が集まって来るのではないですか?
HS:そうですね。人だかりができますね。エレキバンド自体が珍しい上に小5がエレキ弾いてますからね。
練習ながらにして、ライブ状態だった訳ですね。(笑)そうしたバンドの後、ご自身でバンドを組もうと思われたのはいつ頃ですか?
HS:中学生の時です。
同世代の方とのバンドですか?
HS:そうです。ただし自分の学校内ではなく、他の学校の人とバンドを組みました。
自分の学校では相変わらずギターを弾けることすら隠していましたからね(笑)
(笑)
HS:特に中学の頃は、自分の考え方や価値観を知られたくないと思っていましたから。かなりひねくれていました。
全てにおいて、目立たないようにされていたのですか?
HS:そうです。先生も私をどう捉えていいか困っていたようです。標準的じゃないことは確かだけど、悪いことはしない。
多分不良と定義したかっただろうけど、どういう不良なのか分からない。度々呼び出されて「お前、あいつらとは付き合うなよ」とか言われる。
不良と定義された連中とは付き合うなと。付き合ってないんですけどね。とにかく何か指導しなくては、と思ったんでしょうね。
(笑)
「少年から青年へ」
当時、ギター以外に何か興味を持たれていたのですか?
HS:表向きには「ラジコン少年」でしたね。ラジコン飛行機。
作って飛ばされていたのですね。
HS:そうです。
機械がお好きだったのですか?
HS:そうですね。機械は好きでした。親は何かのエンジニアになると思っていたようです。私もそう思っていました。
それは、どなたかからの影響があったのですか?
HS:回りから影響を受けた記憶はありません。何故か機械が好きだったんです。
親がどこかで壊れたラジオとか懐中電灯とか買ってきて与えてくれました。それで遊ぶのが楽しかった。
なるほど。
HS:修理すると親も喜ぶし。
えっ!?平沢さんが直してたんですか?
HS:そうですよ。
スゴイですね!(笑)
HS:次第に飛行機に興味を持ち始めて、パイロットになりたいと思っていました。
ラジコンから、本物のパイロットに?
HS:そうです。
先生に「パイロットになりたい」と話したら「数学が出来ないとダメだ」といわれ、一瞬で諦めました。
(笑)数学はお好きではなかったのですか?
HS:当時は好きじゃなかったですね。何のために数学があるのかさっぱり分からなかった。
とにかく学校は、私にいろいろなものを嫌いにさせる所でした。
機械といえば、数学が関わってきそうですが、そうでは無かったのですね。
HS:そうなんですよ。私は工業高校の電子科でした。
そこで、卒業制作でテレビを作りました。そういう時、具体的な目標を達成するのに必要な数学は苦ではなかったです。だから、あの時先生がどうしてパイロットには数学が必要なのか教えてくれていたら、今頃私はパイロットだったかも知れません(笑)
別の道が待っていたかもしれなかったのですね(笑)ところで、高校でテレビを作られたのですか?
HS:私は誰よりも早くちゃんと映るテレビを完成させました。自分でもびっくりしました。何故かというと、テレビの原理をちゃんと理解してた訳じゃなかったからです。ある回路は理解していて、別の回路はちんぷんかんぷん。つまり、半分まぐれです。
まぐれですか(笑)
HS:だから、今の機材だって、何で動いてんのか解ってないまま色んな事やってますよ。
(笑)
HS:マニュアルを読む人と、読まない人がいるじゃないですか。私、全然マニュアル読まないですから。
メーカーさんによっては、「マニュアルが無くとも使える楽器」を理想として、デジタル楽器を作っているメーカーさんもありますね。
HS:そうですね。私みたいなマニュアル読まない人は、沢山いるんじゃないでしょうかね?
逆に、マニュアル読むのが好きな人もいますよね。エンジニアの鎮西(正憲 / チンゼイ・マサノリ)さんとかは、最初にマニュアル全部見ないと機械を触んない、位の感じですよ。
なるほど(笑)お話戻りまして、中学生でバンドを組まれた後はどうなったのですか?
HS:その後ですね、モトクロスです。
え?
HS:モトクロスです。レーシングチームに入ってモトクロスをやっていました。バンドがつまらなくなったんです。私は子供の頃からヘンな音楽ばかり聴いて来たし、一方バンドのメンバーはTVの影響で楽器をやり始めた人ばかり。当時メンバーを募集するにも限界がありましたからね。自分と音楽の趣味が合うメンバーを中学生や高校生の中から見つけるのは無理だと思い、音楽をやめてしまったんです。GRECOのレスポール・タイプを押入れにしまって、そしてモトクロスへ。
なるほど、モトクロスはどの様な点に興味を持たれたのですか?やはり、形とか、バイクの構造とかですか?
HS:いえ、モトクロスは行為そのものが面白そうだったので。そしてバイクで事故にあったんです。
あららら!
HS:事故後面白い話があって、もう一度音楽やろうという流れになります。何が起こるかわかりませんね。ちょっと複雑ですが、話してみましょう。
中学生のころやっていたバンドがある地域で噂になっていて、パーティーで演奏して欲しいという依頼がありました。それは、バッティングセンターが主催するクリスマスパーティーだったんです。そこにプロのバンドが来るので前座をやってくれと。当時中学生バンドは非常に珍しかったからです。で、そこに来たバンドはプロとは言ってもTVに出るようなバンドではなく、ディスコなどで演奏していたバンドでした。ドクターズというバンドでした。
その後ドクターズはTVに出る派と出ない派に分裂して解散しました。TVに出ない派のギタリストがその時の前座の私を見て、ずっと気にかけていたようです。それから何年か経ち、私はバンドをやめ、モトクロスをやり、事故を起こしてバイクは大破したまま、さてこの後どうしようと考えていた時です。すでに高校生になっていたわけですが、ある日腰まで伸びた長髪の男が私を訪ねてきたんです。彼は「ドクターズのギターの人が呼んでるので来てくれないか」と言いました。ドクターズのギタリストを仮に中村さんとしましょう。長髪の彼に案内されて中村さんのところへ行った訳です。それで中村さんに「おまえ、もう音楽やらないのか?もう一回やれ」と言われて「はい」と即答しました(笑)中村さんの演奏は一度しか見たことなかったけれど、すごいギタリストだと思ってましたし、存在感が半端じゃなかったので、密かに憧れていたからでしょうね。
その方が平沢さんを再び音楽に呼び戻した訳ですね。なぜ、中村さんは平沢さんに興味を持たれたのでしょうね?
HS:中学生で珍しかったからでしょう。当時私はバカですからギター弾きまくっていましたし。日本にまだライトゲージの弦が売られていない時代で、プロも含めてほとんどのギタリストはちゃんとチョーキングできない時代でした。私はインチキをしてチョーキングしまくっていたんです。みんな「中学生がすごいギター弾く」と騙されていました。
確かに、太い弦しかありませんでしたね。
HS:そう、弦が太くてチョーキングなんかできない。そこで6弦は使わず、1、1、2、3、4、5という風に弦を張れば軽くてチョーキング自由自在です。インチキ(笑)
(笑)
HS:そのインチキのおかげで私は実力以上に評価されていたんだと思います。ほとんどの人が物理的な制約、つまり太い弦を張っているおかげで出来ない事を、軽々とやっているように見えたわけですからね。そういう意味で中村さんも騙されたんだと思います。それだけの話ですよ。それで、中村さんに呼ばれたんでしょう。
それが高校生の時ですね。
HS:そうです。
中村さんはその当時、何をされていたのですか?
HS:中村さんはTV出ない派としてドクターズをやめ、実家の牛乳屋さんを引き継ぐことになったんですね。私はその牛乳屋さんに通うようになり、中村さんにいろいろ仕込まれました。ある日、中村さんが「ボクがメンバー見つけてやるからバンドやれ」と言ったんですね。それで組んだバンドがマンドレイク(※11)の前身になります。
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※11 '73~'78まで活動したプログレバンドとされる。時代背景もさることながら、当時の音源を聞くと平沢の先進性が背筋に伝わる!'79からはP-Modelとして世を席捲する! |
ほお!モトクロスからよもや!(笑)
HS:何が起こるかわかりませんね。
その後は、音楽活動に邁進される訳ですね?
HS:そうですね。以前よりマジメにバンドやるようになりました。
でも、まさかプロになるとは考えてませんでしたよ。中村さんはプロにしたかったらしく、いろいろな現場を見学させようとする訳です。「ボクの名前出せば楽屋は入れるからどこそこのバンド見て来い」とか言われましたね。それで行って見ると完全に芸能界で、うんざりする。帰って中村さんに「駄目です、ああいうの無理」、とか報告すると、「そうだと思ったよ」と答える(笑)確信犯ですね。
で、その後、私のバンドはメンバーチェンジを繰り返してマンドレイクになる訳です。更に月日が経って、プログレももう終わりだと思い、スタイルを変える必要があると思って、一気にP-MODELになってデモテープを作るわけです。
ある日、当時使っていたMusic Manのアンプの修理が出来たというので三鷹楽器へ行くと、私のアンプの上に腰掛けて雑談している人が居たんですよ。
アンプの上に!(笑)
HS:そう、それで、「すいません」と言って、その人が振り向くと、私の顔を見て「あ、マンドレイクの人ですよね」と言ったので、「いえ、もうやめまして、今はこういうバンドやってます」と言ってデモテープを渡したんです。実は彼は音楽業界の人で、そのテープは即座にロッキンFという雑誌の副編集長の手に渡りました。そこから、あっという間に事が進み、8社のレコード会社を並べて「好きなの選べ」という、嘘みたいな展開でした。
その巡り合いのストーリーは凄いですね!(笑)
「TALBOとの出会いから……」
TALBOとの出会いはいつ頃なんですか?
HS:音楽雑誌で広告を見たんです。「なにぃ?アルミのギター?!」となりましたね。
デザインも奇抜だし、音がどうであろうと欲しいと思いました(笑)
なるほど!(笑)
HS:まず音より「成り立ち」と「形」ですね(笑)早速、東海楽器に電話して貸してもらいました。
即、行動だったのですね(笑)それはどのアルバムの頃でしたか?
HS:多分、『ANOTHER GAME』(1984)の頃です。
当時、TALBOの発表会が新宿ロフトであった際、田中一郎さんがデモンストレーターをやったんですよね。私、ARB(※12)も好きで。
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※12 石橋凌(Vo)、田中一郎(G)で後の日本の一途なロックバンドに多大な影響を与えたバンド。 |
HS:そうですね、広告でも田中一郎さんが持っていましたね。
それまでは、FERNANDESのVK-7(※13)等もご利用でしたよね?
HS:えぇ。
TALBO以前で気に入っていたギターはあったのですか?
HS:正直に言うと、GRECOのレスポール・タイプですね。
マンドレイクの頃ですね?
HS:そうですね。ただ、似合わないんですよ。
(笑)
HS:色々なギターを弾いたけど、総合的に見て演奏しやすさという意味ではレスポールが一番相性がいいみたいです。ただ、今は使おうとは思いません。隠し持ってもいませんよ(笑)
何かを捨ててでも革新的なものに共感するという姿勢はヒラサワの見所の一つですから、ヒラサワの成り立ちにレスポールやストラトは似合わないですね。そういう意味で今はEVO(※14)が一番気に入っています。
※14 2012/6/7のPHONON2555に初期モデルと初対面。翌日ステージに登場! |
ありがとうございます!
HS:一番変!!!!(笑)
ありがとうございます(笑)
HS:弾き易さという意味でも、先日、取材に来たライターさんにEVOを弾かせたら「スゴイ!弾きやすい!」と言ってましたね。「これならミストーン出さない」と言ってました。
それは、ポジショニングを間違わない、ということですか?
HS:そうです。私は顔がひきつりましたね、「あ、EVO持ったらミストーン出せない」ってね(苦笑)ま、私のギターは全部ミストーンみたいなもんですけどね(笑)
いえ、カッコイイです!(笑)
EVOをご利用の皆さんからは、ネックが弾き易いので楽だとおっしゃって頂いてますね。平沢さんには、最初22フレットのサンプルを使って頂いて、途中から24フレットに変えさせて頂きました。何れもマホガニーネックです。
今回のアルバム『гипноза (Gipnoza) / 核P-MODEL』(2013)では、TALBOとEVOのご利用の割合はいかがだったのでしょうか?
HS:TALBOは使わなかったですね。EVOだけです。一回EVO弾いちゃうと、これだけでいいやと思ってしまう。
ありがとうございます!(笑)
「DAWの変遷」そしてライブでの表現について
普段、アルバムやトラックを制作されている、ここ、「Studio Wireself」でのご利用機材について、お話を伺えますか?
HS:スタジオ機材に関しては、ほとんどのアマチュアの皆様の方が立派だと思いますよ。
いえ、そこは、こうした機材でこんな音楽を作られている、という事が大事なんです。
HS:そうですね。昔からリッチな音よりも個性的な音に向かう傾向がありますね。だから定番と言われているような楽器や機材にはあまり目が行かないんです。これはある意味エンジニア泣かせでもありますね。
例えば新譜の2曲目にP-MODELのパロディーみたいな曲がありますが、『YAMAHA YC-10』(※15)の音を再現したようなチープな音を使っています。P-MODELの1stアルバム製作中に『YC-10』は問題視されました。音の先頭にクリックノイズが出るんです。弾く度にカチカチいうんですね。エンジニアやプロデューサーはこれを排除すべき雑音と解釈するわけです。それで、高価なキーボードをレンタルしようとするんですが、P-MODELは断固拒否しましたね。この雑音が欲しくて高価なハモンドを売り飛ばして『YC-10』を買ったんですから(笑)
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※15 1969年製造、当時の希望小売価格108,000円(税別)。着脱式のスタンドも納まるスーツケース状態で持ち運びが可能な、ライブ仕様の小型コンボ・オルガン(重量23.5kg)。16'、8'、4'のカプラー・トーンレバーを持つCh.1、Ch.2の2セットの音色をミックス可能。 |
(笑)その雑音も、今回、再現されたのですね?
HS:そうです。わざわざクリックノイズが出るようなシミュレーションをしてソロを弾いています。
流石です(笑)
ところで、エンジニアの鎮西さん(※16)とは、こちらの「Studio Wireself」でも共にお仕事をされていますが、例えば、スタジオ機材の面で鎮西さんからアドバイスを頂いたり、という事もあるのでしょうか?
※16 鎮西正憲(チンゼイ・マサノリ):91年以降の平沢氏の全作品に携わる名レコーディング・エンジニア。平沢氏のつぶやきにも度々登場。 |
HS:意見を聞くことはありますが、そもそも鎮西さんと私では機材に関する価値観が全然違うんです。私のスタジオにはヒラサワ・エリアと鎮西・エリアがあるんですが、双方お金をかける場所が違っていて面白いですよ。
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ヒラサワ・エリア:Roland社オーディオI/F、同MIDIコントローラー、GENELEC社モニタースピーカーの他、『E-mu PROTEUS/2』、『Roland JD-990』、『KORG M1R』、『AKAI S6000』といった名作ハードウェア音源群も。「←今はもう、使っていません。」(平沢氏) |
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鎮西・エリア:RME社のオーディオI/F、ADAM社のモニタースピーカー、その他各種レコーダー類が確認出来る。マスターレコーダーとして『TASCAM DA-3000』も導入された。 |
鎮西さんはやはり良い音で、という観点になるんでしょうか?
HS:そうですね。プロですし、作品の最終的な責任を負う、ということもあるんでしょうね。
現在、ご利用中のDAWに関しては、平沢さんは、『SONAR』(※17)、鎮西さんが『NUENDO』(※18)ですね?
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※17 TASCAM (Cakewalk) SONAR:現在はTASCAMブランドからリリースされている、WindowsベースのDAWソフトウェア。1980年代、シーンに確実な足跡を残した米MIDIシーケンス・ソフト『Cakewalk』に端を発するその音楽的な所作が、多くの熱心なユーザーを支え続ける。 |
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※18 Steinberg NUENDO:Steinberg社のフラッグシップDAWソフトウェア。業務用途のDAWとしては、後発ながら、その定評のあるオーディオ・レゾリューションの高さに加えて、ver.を追う毎に高まるオーディオ、及びポスト・プロダクション向けの強力な編集機能が、業務用スタンダードとしての地位を確実なものに。 |
HS:そうです。『SONAR』は古いバージョンからずっと使っています。最初は輸入で購入したので英語版に慣れていたんですが、日本語になって分からなくなってしまいました(笑)
(笑)先程、数学がお好きでは無かった、というお話がありましたが、『SONAR』等でのMIDIシーケンスに関して、今でこそ、グラフィカルに大きな画面を見てシーケンス作業を進められる様になりましたが、それ以前、単体ハードウェアでMIDIシーケンスを行っていた時代(※19)には、小さな画面の中で“1拍を96で分け、その中のどの位置に置く”という風な、非常に数学的な頭の使い方をしていたと思いますが、いかがでしょう?
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※19 ハードウェア・シーケンサー:Roland、KAWAI、YAMAHA等、各社からリリースされていたハードウェアの単体MIDIシーケンサー。後に、ワークステーション・シンセサイザー(KORG M1等)に組み込まれたり、音源入りシーケンサー(YAMAHA QYシリーズ等)へと変遷する。80年代後半から90年代前半にかけての全盛期は、「4分音符1拍を96で分解」するレゾリューションを基本として、トラック毎の小節内での音符の位置を特定。入力ノート数に上限があり(標準機で20,000台から40,000ノート)、リアル・タイム、ステップ・入力に対応。ひたすら文字列で記録された音符、拍内の位置といったノート情報、その他MIDIコントロール情報を文字列のまま、管理、編集する。 |
HS:確かに、機材に慣れるまではロジカルな頭の使い方をしますが、慣れると小窓に現れる数字の情報がアイコンのように見えて、パターン認識みたいな事が起こり始めるんですよね。だからいちいち数字の意味や文脈を解析するようなことが無くなって、瞬間的にトラックのイメージや音の地図みたいなものに翻訳されるんです。これはある意味グラフィカルなインターフェースよりも認識と反応が早くなりますね。
なるほど。
HS:慣れてくると一見難解、煩雑な数字の羅列が苦にならなくなりますね。全てがパターンとして認識されて、しかも小さな窓に必要な情報だけが並んでいるので集中力も増しますね。「認識」「翻訳」「反応」「操作」の一連の流れに熟達するという現象が起きて、操作の動きがものすごく早くなります。いちいち考えていないし、手の動きもパターン化するので。そのうち頭の中にパラメーター対応マップみたいなものが出来て、さらに作業が早くなる。
なるほど。今のDAW環境ですと、色々見えてしまっている、多様なアプローチが出来る分、選択肢が広くて目標が定めにくくなっているかもしれませんね。それよりも、手馴れた環境下で進められるパターン化された作業の方が、遥かに早いのでしょうね。昨今のDAW環境では、なかなかその域まで到達しませんが。
HS:直感的なはずのグラフィカルな環境がユーザーに数値の整合性を強いるようになるんです。例えば、あるパラメーターの値を決めるノブをマニュアルで回した結果生成される数値が整然としたものじゃないと気がすまなくなる。「3.69899」という数値を「3.7」に書き換える作業をしたくなる。鎮西さんがずっとそれやってますよ(笑)
確かに、整えたくなりますよね(笑)
HS:何か無駄な対応させられている様な気がしますね。音楽の質や表情になんの影響も与えない無駄な対応みたいなものを。
今の方々は、ハードウェア時代の過程が無いですから、また考え方は違うかもしれませんね。
HS:比較対象がないのでその分フラストレーションは少ないかも知れないですね。ただ、グラフィカルなものでも熟達は生じます。だけど生じた頃にソフトウェアがバージョンアップされて熟達が無意味になる(笑)「熟達がもたらす創造や喜び」が「新規性の気分転換」にすりかわってしまっているんです。それは創造力や独自性にも関わってくることで、「不便」が淘汰されて行くようなバージョンアップが「リッチなお膳立て」に向かうことになり、「創造」より「選択」の方向に作者の関心を導いてしまう。例えば私は『SONAR』を使っていますが、バージョンアップの度、あるいはグレードの高いもの程、何もしなくても音楽が出来上がるようなお膳立てになって行く。「え?プロデューサー・バージョンて、素人をプロデューサーにしてくれるっていう意味?」(※20)みたいな(笑)
※20 シリーズ最高峰品番『SONAR Producer』。文中にある通り、多くの“ネタ”が盛り込まれているが、より高度な編集作業を行なう為のエフェクト、音源プラグインももちろん強力である。 |
プロデューサー向けでは無く(笑)確かに、第一線の方々には、本来、道具の機能はシンプルで良いのかもしれませんね。ところで、『SONAR』はいつ頃からご利用されているのですか?
HS:『SONAR 3』(2003年)からですね。現在は『X3』です。
それ以前は?
HS:それ以前は、Amiga(※21)で 『Bars and Pipes』(※22)です。未だにあれがベストだと思います。あれはスゴイな、やっぱり。
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※21 Amiga/アミーガ:1985年に米Commodore/コモドールよりリリースされ、1980年代後半から90年代前半にかけて熱心なユーザー層を生んだホームコンピューター。しかしながら、90年代以降のWindows PC、Apple Macの隆盛に大きく水をあけられ、1994年、Commodore社は倒産。その後、Amigaのライセンスは各所に転々と移行される。(画像:Amiga 500 / 1987年) |
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※22 Bars and Pipes:1991年にThe Blue Ribbon Soundworks, LTD.よりリリースされたAmigaベースのMIDIシーケンス・ソフトウェア。 |
どういう部分がスゴイんですか?
HS:他のソフトがだんだん『Bars and Pipes』に似てきています。だけど、まだ痒い所に手が届かない。『Bars and Pipes』はご存知ですか?
いえ、残念ながら。
HS:多機能という意味でスゴイんじゃなくて、ユーザーを作業させるためのアルゴリズムみたいなものが簡潔で、ユーザー側からのあらゆる応用要求に対応できる柔軟性みたいなところです。
『Bars and Pipes』は、バー(Bar/小節))とパイプ(Pipe)で出来ているんです。「Liquid Music」といって、音楽を液体と考えるんですね。で、起点から、何でも良いからソースの水を流して、それが、シーケンサーの中で流れて行くんですけど、途中に蛇口を付けて、方向を自由自在に変更できます。ですので、まずトラックを一つ作ると、そこからベースを作り、次にピアノのアレンジをして、更に、リアルタイムにエフェクターも乗せて行けます。このエフェクターをこの時だけ別の箇所に飛ばす、という行為も、パイプで繋げるだけなんです。まるでゲームの様です。そして、Amiga上で、ほぼ全ての他のソフトと連携します。例えば、オーディオと、MIDIと、映像と、が同時に扱える。
映像も、ですか?
HS:Amigaでは、ARexx(エイレックス/Amiga Rexx)という共通のスクリプト言語があり、それに準じていれば、どんなソフトでもマルチタスクで利用出来るんです。そして、マスター、スレイブの概念が無い。誰でもマスターで、誰でもスレーブになれ、足りない機能があれば、全て、他と行き来して補い合えるんです。
それは、興味深いですね!
HS:最近、『SONAR』が、見た目は『Bars and Pipes』に似て来ました。
横に流れるフローが出来たんですが、ただ、例えば、『SONAR』だったらば、プラグインのシンセサイザーを鳴らす時には、もう1トラック増えるじゃないですか。どんどんどんどん複雑になる。
『Bars and Pipes』の場合、そういう事はないんですよ。MIDIのトラックにシンセサイザーを乗せるだけでいい。そして、途中で、こっちのトラックで、この設定で低音を弾きたい、となったら、パイプでバッとそこに繋げばいい。シンセはそんなに沢山立ち上がらなかったりするんですけど。
なるほど。『Bars and Pipes』のご利用期間は?
HS:長いですね。ことぶき光(※23)がいる前から、『白虎野』(2006)(※24)あたりまで使ってたかな。
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※23 ことぶき光:1987年P-MODEL参加。P-MODELライブにおける要塞の様に組み上げられた異形のシンセ・セット、常用外をも当然とする極限の機器の活用等で、多くの異才が居並ぶP-MODELメンバー史上においても印象深い活動記録を残す。以降も自身のバンド、プノンペン・モデルとして、あるいは、富田勲氏をはじめとする様々なアーティストのサポートを手がける異能のミュージシャンとして活動中。
画像はことぶき氏参加のP-MODEL名義アルバム、『P-MODEL』。1992年作。クラブ・カルチャー下に再興した「テクノ」全盛時代にリリースされた、オリジネイターによる「テクノ」アルバム。しかしながら、同時代性皆無、全編“4つ打ち”のつけ入る隙も無い、完全無欠のP-MODELワールドが繰り広げられる様は、ただただ素敵である。 |
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※24 白虎野:2006年発表のソロ10作目作品。2000年以降、平沢氏の作品は、自身の運営するTESLAKITEレーベルより、大手流通は使用されることなく販売されている。 |
それは長いですね!
HS:開発した会社が買収された時に『Bars and Pipes』は、フリーウエアとして放出され、その後、あるドイツ人が一人でバージョンアップを続けていました。昔は彼と連絡取り合ってたけど、最近ご無沙汰です(笑)
なるほど。そうして、『白虎野』あたりからSONARに代わられたのですね。
HS:そうです。完全にスイッチしたのではなく、少しずつ、少しずつですね。例えば、音源は『SONAR』で、MIDIは『Bars and Pipes』とか。
現在もまだ併用されているのですか?
HS:いえ、していないです。今やAmigaを維持するのはクラッシックカーを維持するようなもので、コストがかかりすぎます。マシンが製造されなくなってから、もう20年以上経ちますからね。
Amigaを使われていた頃、平沢さんはAmigaでCGも作られていましたね。
HS:Amigaだから映像をやっていたとも言えます。当時は、今もですけど、Amigaは日本ではほとんど知られたいなかったんです。スタジオにAmigaを持ち込むとスタジオさんが必ず「Mac」(※25)と呼んでました(笑)音楽業界では、パソコンは全て「Mac」という認識でしたからね。そんな時代に3DのCGをリアルタイムで動かせるのはAmigaだけでした。他のマシンでは数百万円かけても無理でした。音楽が徐々にDTMの曙へと向かう時代に、Amigaは既にデスクトップ・ムービーに到達していたんです。
DTMのおかげでアーティストは自立できるようになり、いずれは映像分野もそうなるという予兆を見てもらいたかったんです。
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※25 Mac:ご存知、Apple社Macintosh パーソナル・コンピューター。 1984年の初代機リリース以降、先鋭的かつスマートなハードウェア構成のみならず、ワンボタン・マウス、アイコンを使用した明快なグラフィック・ユーザーインターフェイス等、使い易さを追求した操作性が高く評価され、特にアカデミックな分野、そして音楽を含むアートな分野において、広くユーザー層を確立する。 |
CGへのアプローチは、そういう目線だったのですね。
HS:そうです。だから今はもうみんなが映像を出来る時代になりましたし、専門的にやっている人には敵う訳がないので、自分ではやらなくなりました。
平沢さんのライブ・ステージでは、AmigaでのCGの時代から、現代の大掛かりなシステムに至るまで、映像がフルに使われています。映像の他にも、平沢さんのライブ・ステージでは、“楽器の発展型”というか、“装置”というか、そうしたオリジナル機器(※26)をご利用ですが、それらの機器はどういう発想で作られているのでしょうか?
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※26 オリジナル機材:平沢氏のライブで登場する、オリジナルの楽器・機材群。2013年11月公演のライブ【ノモノスとイミューム】では、『レーザー・ハープ』が大々的に使用された。ライブ・レポートはコチラから。 |
HS:端的に言えばショーアップのためなんですが、身体性の獲得みたいな考えから出てきています。
打ち込み系の音楽はライブでも身体性が希薄じゃないですか。身体を動かさないとライブ感を共有しづらいし、かといってダンスするわけにもいかない。
そこで、実際は小さな指の動きで済んでしまうような動作を拡大して、必然的に体が動くようにするという訳です。最初に考えたのが『チューブラHz(ヘルツ)』(※27)という楽器で、キーボードを指で弾く動作をわざわざテコを使って拡大し、体で押し倒すという動作にしたものです。バカバカしいですね(笑)
※27 チューブラHz:並んだチューブ管を操作し、音声を発音、演奏する大型機器。文中で解説されている通り、その実態は、人力によるMIDIトリガー。そしてネーミングは、あの作品から(笑) |
そんな成り立ちだったのですね(笑)その『チューブラHz』で弾いていた楽器は何だったのでしょうか?
HS:あれはCASIOのFZ(※28)です。鍵盤にじかに長いパイプのテコが当たっているだけです(笑)それで、FZのMIDI信号をサンプラーに送って鳴らしていました。FZもサンプラーなのに(笑)
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※28 CASIOのFZ:『CASIO FZ1』サンプラー・シンセサイザー。1987年製造。“波形を描ける”16bitサンプラーとして人気を博す。 |
(笑)それ以降の機器も同様の発想で?
HS:全て動作の拡大と身体性が目的です。できるだけ動作が大きくなるようにしなければならないので、ほとんどバカバカしいものになりますね。例えばデータグローブ(※29)を装着して何らかのパフォーマンスをすればカッコイイですが、動作が小さくて大きな会場では見えないでしょ?『グラビトン』(※30)という楽器は、単純なMIDIトリガーなんですが、発電機が付いていてそれを手で回して演奏するんです。そんなもの電池を入れておけば済むものですが、車輪を回す動作が大きくなるので、わざわざそんなことをするんです(笑)
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※29 データグローブ:ファミリーコンピューター用のデータグローブ『パワー・グローブ』を改造し、楽器用のトリガーとして使用。90年代中期P-MODELのライブに登場。 |
※30 グラビトン:文中にある通り、大きな車輪を手動で回し、発電、MIDIパッドを駆動させて、音声信号をトリガーする、大掛かりな装置。 |
MIBURIや小西(健司)さん(※31)時代のパーカッション・コントロールも基本的に同様の目的があったのですね?
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※31 小西健司(こにしけんじ):1994~2000 P-MODEL在籍。関西圏のエレクトロ・テクノ・ユニット『4-D model1』メンバー。P-MODEL在籍時は、小西氏による楽曲も多く発表され、ライブにおいては、『パワー・グローブ』、『MIBURI』をはじめとする機器を操り、メガホンによるアジテーションも行う“動的パフォーマー”として君臨する。サウンド面では、エレクトリックなメタルビートがトレードマーク。
画像は小西氏参加のP-MODELアルバム『音楽産業廃棄物』。(現時点での)P-MODEL名義での最終盤。同アルバムは、MP3フォーマットで自主配信(メジャーではない)販売された記念碑的作品でもある。なんと、1999年のこと。 |
HS:そうです。
そうした行為は、お客様へ楽しんで頂く為のサービスという側面はあるのでしょうか?
HS:そうですね。観客の反応も大きくなって舞台に帰ってきますから、まさにライブです。
同じ動作でも観客が居れば「次、どう動こうか」と考えるようになり、緊張感や、一回性も生じます。でも次はEVO2台でやろうと思ってます。矛盾してるでしょ?
EVO2台をお一人で?
HS:いえ、違います。二人で同じ衣装を着て同じEVOを持ち、決まった同じアクションをするという方法です。1台のEVOは主にMIDIギターとして使います。
「MIDIギター」そして「ギターのライン接続」
MIDIギターといえば、過去にMIDIギターを積極的に使われていた時期もありました。
HS:ありましたね。2機種使ったのかな?3機種か。ダメですよね、あの頃の。
(笑)いつ頃でしょう?CASIO(※32)ですか?
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※32 外部に接続しなくても、iPD音源内蔵でシンセサウンドが出せる。PG-300、PG-380が発売された。 |
HS:CASIOかな?
あの頃、MIDIアウトが付いていたのは、CASIOだったかと。
HS:確か、最初Ibanez(※33)で、その後CASIOです。
※33 Ibanezも富士弦がGRを生産していた関係で早くからギターシンセを製造していました。
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その頃だと、例えばRolandが24pinからコンバートですね?Ibanezも同じ様な感じですね?
HS:そうでしたね。同じです。コンバートしていました。
CASIOだけだったんですね、本体にMIDIアウトが付いていたのが。本体にコンバーターを入れて。
HS:あの頃は意外性を狙ってギターでパーカッション・ソロをやってましたが、リズムものは音の遅れが致命傷になりますよね。それでもやってたんです。ライブの後に「ヒラサワさん、今日はテープの調子おかしかったですね」と言われてショックでした。
(笑)
HS:逆に、ギターからパーカッションの音が出てるとは思われなかったということですが、じゃあ私はあの時一生懸命何をやっているように見えたのかと、拍子抜けしました(笑)
(笑)パソコンも8bitの頃ですものね。
HS:でもまぁ、ギターシンセをライブで使うことを想定して作った曲もあって、それの為にしばし使ってましたけどね。それでも、上手くいく事はめったにないんですけどね。
(笑)なかなか難しいですよね。思うに、パットメセニーがライブで使っていた際は、かなり前ノリで演奏(※34)してたと思うんですよね。演奏にピタッと合ってましたからね。
※34 当時のギターシンセは現在と比べると反応が遅いので、リズムに正確に合わせると遅れた出音になる為、前ノリで弾かなければバックとリズムが合わない! |
HS:凄いですね。
最近では、PODやPCベースのアンプシミュレーターへの接続で、レイテンシー慣れされているギタリストも増えていると聞きます。
平沢さんもライブでは、ギターを(アンプを使用せず)ライン接続されていますが、レコーディングでもライン接続なのですか?
HS:ラインです。
どういった接続をされているのでしょう?
HS:ケース・バイ・ケースなんですけど、エフェクターのアンプシミュレーターを通す場合と、DAWの中のアンプシミュレーターを使う場合、そして何も使わない場合とありますね。
何も使わない場合は、DI直挿し、という事ですか?
HS:そうですね。
ラインの直録りは以前から行っていたのですか?
HS:そうですね。アンプの音が好きじゃないので、以前からラインで録るケースがありました。そして、今ではライブでもラインです。あのパッサパサの音が好きなんですよね。
(笑)そのパッサパサの音は今回のアルバムには入っているのですか?
HS:いえ、大体ディストーションが掛かってますが、ラインの音にディストーションを掛けるのも好きです。マイク・オールドフィールドの油が落とされたみたいな音はいいですね。あからさまなラインの音。
あれは、まさにラインの音ですよね。私達も、当時、あれを真似しようと思って、オープンデッキのテープレコーダーにギターを繋いで、テープレコーダーのアウトからスピーカーに接続して、それらしい音を出していました。
HS:ああいう乾いた音がとにかく好きで。でも、ぐちゃぐちゃにしなくちゃなんない時には、アンプシミュレーターを使うという。
(笑)実機のアンプを使われていた時期は、どの様なアンプを使用されていたのでしょうか?
HS:ずっとMusic Man(※35)でした。
とにかく、アンプの事を何もしらなかったので、三鷹楽器に行って「アンプ下さい」って。「これどう?」と言われて。でも、楽器屋さんで試し弾きとか、恥ずかしくて出来ないんですよ、私。で、何でもいいや、って。で、その後、Roland Jazz Chorus、それで終わり。
※35 オールチューブ若しくはオールトランジスタ全盛の頃、まさにハイブリッドな方式で製造。エリック・クラプトンも3段積みで愛用していました。 |
あの頃のMusic Manは、プリアンプがFETで、パワーアンプが真空管でしたね。
HS:で、何故か、スピーカーの磁石がでっかいんですよね。
そうでした!当時としては新しい事やっていたんですよね。
HS:重たいですけど。アンプって重いじゃないですか?あれがもう嫌で。
ということは、自分で楽器を運んでたって事ですけどね、P-MODEL時代。後片付けも自分でやってました。
えぇ?バンドの皆さんだけで、あの膨大な機材を運ばれていたのですか?シンセサイザー群もありましたよね?
HS:そうです。ローディーもいないので、自分で。
スゴイです!(笑)
「シンセサイザーの変遷」~「スタジオ環境」
シンセサイザーといえば、平沢さんは、シンセサイザーに関しても、ギターと同じ様に通って来られましたよね?
HS: エレキギターの存在や形に魅了されたのと同じ経験をシンセサイザーでも感じました。革新的で未来的という意味で、シンセはエレキ以上のショックを受けましたが。もう「エレキ終わり!」と思いましたね。
私は、『Switched on Bach』(※36)、ウェンディ・カルロス(※37)から入っているのでMoog派なんです。壁のような『Moog III』(※38)にあこがれましたよ。だけど、高価で『Mini Moog』(※39)すら買えない。そのうち国産のものも出始めましたが、カッコわるい。デザインが全然ダメ。だから買わなかった。やはりシンセもエレキ同様、形が鍵でしたね。エレキの時代同様にシンセ本が出まして、それで原理を勉強したんです。そのタイミングでYAMAHAの銀座店でYAMAHA『CS-10』と『CS-30』(※40)のデモ演奏できる人を探しているという情報が入りまして、私やっちゃいました(笑)
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※36 『Switched on Bach』: Wendy Carlos(ウェンディ・カルロス)による、J.S.Bachの諸作品をMoogシンセサイザーで再現する、という革新的コンセプト作品。1968年当時、MIDIシーケンサーはおろか、ポリフォニック・シンセサイザーも無い時代に、Bach作品のパートの一音一音をmoogのモジュラー・シンセサイザーで音を作り上げる事から始め、自作(!)の8トラック・テープレコーダーで録音を重ねる、という作業を完遂。作品がリリースされると同時に、世界中で喧々諤々の様々な評価を巻き起こしつつ、大ヒット、その後のシンセサイザー界の制作におけるスタイル、方向性を示す。 |
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※37 Wendy Carlos(ウェンディ・カルロス):1939年生まれの作曲家/演奏家。1964年のAES会場でRobert Moog氏、及びMoogモジュラー・シンセサイザーと出会う。以降、この新たなる楽器、Moogシンセサイザーを積極的に活用、その後のモジュール開発の有力な協力者にもなる。『Switched on Bach』シリーズ以降も、作曲家として、『Clockwork Orange(時計仕掛けのオレンジ)』(1972)、『Shining(シャイニング)』(1980)、『TRON』(1982)といった映画作品のサウンドトラックの他、その後のアンビエント・ジャンルのオリジンともいえる実験的なオリジナル作品をリリースしている。 |
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※38 Moog III:前出の1964年AESコンベンション会場で発表されたMoogモジュラー・シンセサイザーは、その後、基本セットのバリエーションを『I』、『II』等々としてカタログ化、その標準モデルのひとつが『III』。画像は、上記、Wendy Carlos女史のHPにまとめられているMoog氏とMoog製品のコラムにアーカイブされている、1967年のMoogシンセサイザー・カタログより。 |
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※39 Mini Moog:Moog氏の名を世に刻んだ、1970年発表の歴史的シンセサイザー。モジュラーシンセの基本要素を鍵盤と一体化させ、操作性、演奏性、そして可搬性に優れた“楽器”としてパッケージ。シンセサイザーのポピュラー・ミュージック・シーンへの進出を大きく加速させた。もちろん、モノフォニック。 |
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※40 YAMAHA CSシリーズ:70年代にリリースされた、純国産アナログ・モノフォニック・シンセサイザー。その中核をなすベストセラーモデルCS10(1977)は、1VCO/1VCF/1VCF/37鍵、上位モデルでシーケンサー内蔵のCS30(1977)は2VCO/2VCF/2VCF/44鍵という仕様。(画像:平沢氏が入手したモデル『CS10』) |
・・・・・・その時はシンセサイザーは?
HS:持ってないです。ペーパードライバーです(笑)
(笑)
HS:そして、YAMAHAのデモ演奏がきっかけでバッハ・リボリューション(※41)と知り合い、「プレイボーイ主催のシンセコンテストに作品を出せ」と言われたんです。賞品は『CS-10』だと。それで、シンセを借りてきて作品を作り、入賞して『CS-10』いただいちゃいました(笑)
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※41 バッハ・リボリューション(The Bach Revolution):1975年に田崎和隆、鈴川元昭により結成されたシンセサイザー多重録音ユニット。後、本文中にある、YAMAHAデモ演奏の業務関連において、平沢氏と出会うこととなる神尾明朗が加入。
プログレ~アンビエント~テクノポップといったキーワードを想起させる音楽性で、テクノポップ・ブーム夜明け前の基盤作りの一端を担う。ラスト・アルバム『No Warning』には、P-MODEL結成前の平沢氏の名もクレジットされている。
(画像:アルバム『No Warning』1979) |
スゴイ!(笑)ちゃんと正面からいただきに行ったのですね?(笑)
HS:はい。
その頃の音楽活動は、どの時期だったのですか?
HS:その頃はマンドレイクですね。
じゃ、その『CS-10』は、マンドレイクでも使われたのですか?
HS:いえ、ちょうどギリギリのところです。マンドレイクからP-MODELに変わるちょっと手前です。
その時期、平沢さんは『CS-10』の教室の先生をされていませんでしたか?
HS:やってました。
私、当時、三鷹楽器で『CS-10』の教室の担当だったんです。
HS:あら?そうでしたか。当時バッハ・リボリューションはYAMAHAシンセのプロジェクトに携わっていて、その関係で私もあちこちの楽器店にシンセの講師として派遣されてました。
『CS-10』以降のシンセサイザーの変遷は?
HS:まず『CS-10』、次が『KORG 800DV』(※42)、これ盗まれました。名機でしたね。次に『KORG MS-20』(※43)。そして『YAMAHA CS20M』(※44)。その後アナログものは買ってないと思います。ステージではギタリストだったんで、あまり持っていませんでしたね。バッハ・レボリューションの所に行けば何でも借りられたし。デジタルものでは『CASIO CZ-5000』(※45)を持ってました。シンセとマルチトラックのシーケンサーが合体したやつ。あれは使いづらかったけど革新的でしたね。当時まだCMの音楽制作をやってたんですが、スタジオに『CZ-5000』だけ持って行ってイヤがられましたよ。あれ1台に全部仕込んで行けばそれでOKなんですが、実はCMの現場ってシンセが山積みにされるんです。更にそれを自分で操作せずマニピュレーターが操作するんです。とにかく大袈裟に演出されているんです。何故そうするかというと広告代理店やスポンサーに「シンセで音楽作るのはこんなに大変なんだ」とアピールして予算を取るためなんです。
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※42 KORG 800DV:1974年リリースの「アナログ・モノシンセ2台入り」デュアル・ボイス・シンセサイザー。2セットの音色をアッパー/ローアーに設定する他、スイッチ切替的に使用も出来、2オシレーター x 2セットをユニゾンで発音させる事も。フィルター・セクションには、初期KORGアナログ・シンセ群でお馴染みの「トラベラー・ノブ」も搭載。 |
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※43 KORG MS-20:1978年に登場した“パッチできる”2VCO・モノフォニック・シンセサイザー。デスクトップに収まるコンパクト・サイズ、10万円を切る価格設定から大ヒット。昨今の復刻製品群も、当時から受け継がれた存在感たっぷりのサウンド、音作りを体感出来るそのインターフェイスにより、アナログ回帰ムーブメントを牽引した。 |
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※44 YAMAHA CS20M:1979年発表、37鍵2VCO/1VCF/1VCAのオーソドックスなアナログ・モノフォニック・シンセサイザー。特筆は、本体鍵盤上段に配置された、8つの音色をメモリー出来る、プログラム・ボタン。手元に配置されたポルタメント、サスティン、ブリリアント・ノブ群と相まって、シンセサイザーの、より実戦的なユーザーインターフェイスの進化が垣間見える。 |
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※45 CASIO CZ-5000:1985年発表の16音ポリフォニック・デジタル・シンセサイザー。世にデジタル・シンセサイザー・ブームを引き起こしたYAMAHA DX7(1983年登場)以降のデジタル・シンセを代表する銘柄、「CASIO CZシリーズ」(1984~)の8トラック・シーケンサー内蔵・プロモデル。筐体デザインは立花ハジメ氏によるもの。CZシリーズは、CASIO独自開発による、PD音源を搭載。幅広い音作りと、直感的なサウンド・デザインにより、多くのユーザーを獲得する。 |
(笑)そうした現場では何をされるのですか?
HS:3分で終わることを1時間に引き伸ばします(笑)
シーケンサーから流し込めば済んでしまうことを、わざと考えながら手弾きしたり、スポンサーのご意見を聞いて曲に反映させます。そろそろ録音が終了しようという時間になるとスポンサー様に聴いていただきます。スポンサーは企業の広報担当者が数人でやってきますが、立場上何か言わなきゃいけないと思っていて、しばしばチグハグな要求を出します。スポンサー様の要求ですので「それはオカシイです」と言う人はほとんど居ません。私は言われた通りに曲に手を加えて、曲がオカシくなることを実際に示します。これを何度か繰り返し、ご納得いただいて納品、終了。
(笑)そうしたハードウェアを経て、もうハードのシンセを使わなくなった、という時期はいつ頃からでしょうか?
HS:『SONAR』を使い始めてからですね。アナログ的なソフト・シンセはフリーウエアの『Synth 1』(※46)だけです。他にも高価なソフト・シンセを持っていますが、使うことはほとんど無いです。『Synth 1』も進化しているし、操作性も良く、ほとんど不満はありません。
かつて『Bars and Pipes』を使っていた頃は「フリーウエアでアルバム製作するミュージシャン」、今は「フリーウエアのソフト・シンセのみでアルバムを作るミュージシャン」。こういう背景好きなんですよね(笑)
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※46 Synth1:プログラマーdaichi氏により、2002年に開発され、その後も更新が続けられている、“世界で最もダウンロードされている”フリーウェアVSTi/AU対応ソフトウェアシンセ。“Clavia NORD LEAD2を手本にして”作ったとされ、オーソドックスな“アナログ・シンセ”のスペックが網羅されている。 |
なるほど(笑)
今回の「核P-MODEL」とそれより前の「平沢 進」名義の作品では、シンセもそうですが、使用楽器の差が感じられました。例えば、ストリングス・オーケストレーションの有無ですとか。
HS:そうですね、基本的にソロの方は、アナログ音の音源を「無制限に使って良し」(笑)
「核P-MODEL」に関しては、「1点か2点に止めよ、しかもメインであってはならぬ」ということです(笑)
こういう制限もあるんですよ。「核Pは、メロディーの上下の振幅が、ソロよりも狭くあるべし」。
あー、なるほど!確かに今回のアルバムは、直線的、というか、スピード感がありますよね!
HS:そうなんです。
あと、歌詞なんですけどね、「こちらはより散文的で良し」、「より意味がわかんなくて良し」。
なるほど!(笑)
ところで、この『Gipnoza』のジャケットの写真にあるコチラ(※47)は、普段ご利用のマイクの…?
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※47 『核P-MODEL / Gipnoza』(2014) |
HS:そうです。サスペンションです。
ノイマン(NEUMANN)ですか?
HS:そうです。『U87Ai』(※48)です。
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※48 NEUMANN U87Ai:稀代の名作スタジオ・コンデンサー・マイクロフォン、『U87』。1986年よりエレクトロニクス部に変更が加えられ、現在の“A”表記に。現在の多くのサイドアドレス型ラージダイアフラム・コンデンサーマイクの雛形ともいうべきそのスタイルは、1967年の誕生当初より変わる事無く、50年以上に渡り、世界中のスタジオの“ファースト・チョイス”マイクロとして君臨し続けている。 |
こうしたマイク類のセレクトは?
HS:鎮西さんですね。
低音がメインになるボーカルは『SHURE SM57』(※49)で録るんですね。あと、ウィスパーボイスも『SM57』で録って、それ以外は、コッチを使うんですよ。で、これの前は別のマイクだったんですが、ある時、私がPA屋さんがそのマイクをシンバルに使っているのを発見して、「鎮西さん、私の歌をシンバル・マイクで録るんですか?」と。
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※49 SHURE SM57: 1965年初出のダイナミック・マイクロフォン。ドラマー、エレキギター奏者で、ライブorレコーディングを経験した者であれば、人生に1度は自らの楽器にセッティングされた風景を目撃した事があるはずの、絶対的スタンダード楽器用マイクロフォン。つまり、平沢氏の声は、やはり“楽器的”であるということか? |
(笑)
HS:鎮西さんによると、私の声と相性がいいらしいんですが、「私の声はシンバルか?」っていう(笑)後に、このマイクに変えたんですけどね。
鎮西さんもご苦労されていますね(笑)そうしたボーカル録りは、どちらで行なわれているのですか?
HS:このスタジオのブースです。
そうした録音作業もソーラーシステム(※50)で行なわれているのでしょうか?
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※50 ソーラー発電:2001年、平沢氏により、「音楽活動のあらゆる場面で必要とされる電気エネルギーを、太陽電池を主とした発電システムを駆使して自ら作り出し、作曲からレコーディング、さらにはコンサートまで実現させてしまおうという」革新的プロジェクト、『Hirasawa Energy Works』が実施された。当時、音楽業界以上に、経済界、エネルギー業界から熱い注目を浴びた。(画像:プロジェクトの一環として制作されたアルバム『SOLAR RAY』2001年) |
HS:そうです。現在ソーラーシステムはグレードアップされて4kwありますから、完全にソーラー電源だけで足ります。以前は1kwで一旦蓄電したものを節約しながら使っていました。今なら曇りの日でも概ねOKです。
ソーラー電源システムも更新されているんですね。
HS:はい。他にも、建物内の照明を全てLEDにして、省電力化しました。最近、LED照明の電磁波は体に悪影響を及ぼす可能性があるらしいと言われていますが。
(笑)最近では、アンプ類もデジタルアンプの採用で省電力が図られていますしね。
「ギター」を越えるアプローチ、そして「EVO」
HS:アンプといえば、ギターのケーブル無くならないかな、と思って。
ワイヤレスですか?
HS:ワイヤレスでも、ワイヤレスに電池を入れて、繋いで、となりますよね。
では、接続の煩わしさ、ですか?
HS:煩わしいですね。
ライブで自由に動かれたいのですか?
HS:コンピューター内の仮想ケーブルパッチに慣れてしまったので、物理的な配線が煩わしく感じるんです。
なるほど(笑)
レコーディングの時に、「じゃ、鎮西さん、次ギター録ります。」といって、エフェクター出して、ケーブル出して、ギター出して、配線して、とかもうめんどくさくて。
(笑)1950年代から進化していないんですよね。
HS:あと、弦どうにかならないかな、と思って。
(笑)弦ですか!(笑)
HS:ロボット・チューニングってどうなんですか?
アナログですね。ギヤを廻して。結局、人がやっている事と同じですよ。
HS:モデリング音源で、チューニングが狂っていても大丈夫なギターがあるじゃないですか。でも、モデリング音源でレコーディングするとEQが全然効かないように感じるんですよね。
ピッキングの時のニュアンスも違いますよね。そんな中、RolandのVG/GR音源は、ちゃんと抑揚が効くんですよね。そうすると、弦の太さとか、テンションとかが大事になってくるんです。指先でニュアンスを表せるんです。
HS:逆にまったくそうしたニュアンスを無くすギターシンセって無いのかな、と思って。
昔、YAMAHAとか色々な所が、スイッチにしたりして製品化してましたけど、結局、抑揚が出せなかったので頓挫しているんですね。
HS:スイッチ・タイプの製品群、KITARAとかYAMAHAを持っているんですけど、あれらは、表現力以前の問題で、弾き辛いんですよね。
(笑)
HS:あれで弾き易ければ。
(笑)
HS:ギターシンセって、どんな音源使ってもギターに聞えるじゃないですか、勿論ギターなんだからしかたないですけど。どこまで行ってもギター的なニュアンスが残っていて、鍵盤の代わりにはならないですよね。ギターの構造的な運指の制限のせいだと思うんですが、あのニュアンスを必要に応じて消せればもっと表現力が広がるのに、と思ってしまいますね。
アタックの問題もあるんでしょうか?
HS:それもあるでしょうし、運指の限界、とかパターンの問題でもあるでしょうし。
JAZZの運指をされる方は、意外とそれ風に聴こえますよ。
HS:そうなんですね。
今回の平沢さんの作品『Gipnoza』の中で、単旋律を主体としたフレージングに、非常にシンセ的なアプローチを感じました。そもそも、ギター的な「ジャカジャーン」という風なカッティング・フレーズは無いですよね?
HS:まず、ギターで「ジャカジャーン」って弾く事はほとんど無いんですけど、今回EVOを使用して面白いと思ったのは、例えば一番最後の曲のソロもEVOでやっているんですけど、あれはギターに聴こえないんですよね。よく考えると、倍音の減衰が非常に長い。細かく細かくフレージングしているので、一音一音の倍音が減少する前に次の音に移るからなんですね。まるでアコーディオンみたく聴こえたりとか、凄く面白い。
なるほど。EVOは瓢箪から駒なところがありまして、94~96年に釣り道具屋さんのBill Abelという人が、削り出しのアルミのボディを作って、ギターを作っていたんですね。私も同様の製品を持っていたんですけど、その時期、私はTALBOを復活させてまして、削り出しは面白いな、と思ってました。倍音もしっかりしていましたし。ただ、その当時は、やっぱり削り方とか作りのレベルが低かったので、今回は、もう少し彫ってみようとか、骨組みを作ってみようとか、色々やってみたらああなったと。
その後、EVOをご購入頂いた方の中で、『SMARRT』(※51)という測定ソフトを使って、EVOとご自身で持っていたレスポールの周波数特性を比較して下さった方が居て、初めてEVOの音の特性が目に見えたんです。
HS:倍音が多かったんですか?
倍音が正確でした、そして、減衰が長いとか。下も上も凄くちゃんと出ている、というのがありまして。余分な倍音も無いので、ギターに聴こえない、という事もあるかもしれませんね。
HS:結果としては、倍音が豊かにあるにも関わらず、ディストーションをかけた時に暴れないんですよね。干渉が起こらない。これって大体ディストーション3段がけしてるんですよ。
そうなんですか!
HS:えぇ。でも、全然暴れないんですよ。
それは、暴れさせようと思って3段がけなのですか?
HS:いえ、そうではなくて、ピッキング等のニュアンスを消そう消そうとしているんです。で、3段がけしてって、普通だと倍音同士が干渉してグワーっとなっちゃうんですね。
そうですよね。
HS:それが、EVOでは、キチンと分離してるんです。これにはちょっとビックリしました。
結果としては望んでいた方向だったのですね?
HS:はい。だから、いわゆる普通のギタリストにとってはどうなのでしょうね?と気になります。
そうですね、例えばヘヴィーメタルの方達が、ギャンギャン歪ませて弾いて、「えっ!何コレ!凄い!」となりますね。
HS:やっぱり。
どんなに歪ませても、自分が弾こうと思っているところ、いつもだったら無くなっているところまで出てくるんですね。それで、「凄いねこれ!」って。
他には、スタジオ・ミュージシャンの方から、「立ち上がりが早いね」と言われました。そして「あ、こんなポジションまでグイグイ来るんだ!」となりましたね。
HS:バランスが、全部の帯域に渡って良いので、普通、レコーディングでEQが必要になる場合でも、ほとんどEQ無しで行けますね。
EQとかディストーションは、ギターの足りないところを補おうと出てきた物なんですけど、EVOには全部あるから、それが要らない、と。逆に、エフェクトの効きがいい、と皆さんおっしゃいますね。加工が楽だ、とも言われます。
もちろん、昔の音楽でのギターはこうじゃない、という方も多くいらっしゃる訳ですし、そうした場合には、そういうギターをご利用頂ければ良くて、そうではない、自分の表現の中で、「こうありたいな」と思う時に出来ちゃうのは凄く楽しくて、店頭で試奏中の若いギタリストの方にEVOを弾いてもらうと、水を得た魚の様にフレーズが出てきて、「これ凄いですね」と。
作った側の思い込みと、弾く人がどう感じるか、は別の話ですので、色々な人に弾いてもらってお話を訊きたいですね。
ですので、ライブで、平沢さんともう一方が2本同時にご利用頂けると訊いて、非常にありがたく感じています。例えば、ピックアップの仕様を変えた方が良いのかな、それとも同じがいいのかな、サスティナー等に関しても両方あった方が良いのかな、等々、色々実験して頂ければと思います。
HS:まだ、現時点ではどうするか具体的に決っていないのですが、恐らく一人はモデリング音源を使うと思うんですね。
彼、PEVO1号が使います。
それは楽しみですね!どんなライブになるんでしょう?期待しています!
ライブも含め、今回は「核P-MODEL」名義での活動ですが、「平沢 進」さん名義での活動とのバランスはどのようにお考えですか?
HS:特にはないんですけど、「これ9年ぶりに出た」って、もう9年経っているんだって、ビックリしたんだけど。9年ぶりに出たから、また9年後に。
(笑)
HS:特に一緒に作業している人、レギュラー・メンバーはいませんので、私の気分次第、という事で。ただ、P-MODELから核P-MODELにかけて、背後でうごめいている「太陽系亞種音」(P-MODELから核P-MODELに引き継がれたストーリー)が、どうやらPEVOと深い関係があるらしい事が分かってきました。PEVOも「太陽系亞種音」にまつわる調査活動を始めるかもしれません。そうなると私もPEVOの活動に関与しなければならなくなるでしょう。
以上で壮大な「平沢進 激烈インタビュー」は文字化されましたが、現在進行形で新たな作品やライブ展開もあり、
ミュージシャンやクリエイターという括りでは到底表すことが出来ない平沢進です。
目が離せない!存在自体が言い尽くせない程の禁断的果実か?鋭利な刃物か?これからも、追い掛けます!